境の明神
明神は、「関明神」とも「境の明神」ともいわれ、文献に紹介されることが多い。古来国境には関をはさみ男女二神を祭るのが習わしであった。関東側を玉津島神社、奥州側を住吉神社という。(文献により逆説もある)
関の二所明神は、南部藩お抱え力士の軍之丞が創設した相撲部屋「二所の関部屋」ゆかりの地ともいわれている。
玉津島神社は、天喜元年(1053)4月14日、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝えられている。祭神を衣通姫(そとおりひめ)という。古来和歌の神として知られ、和歌を奉納した記録もある。福島県側に住む石井家には天保3年(1832)、玉津島神社へ奉納した和歌集が保管されていたが、今は白河市へ管理を移管し、同市が所蔵している。表書きに「奉納百首和歌」とあり、別に玉津島社奉納和歌作者目録がある。芦野家の家臣である松本風阿(ふうあ)が奉納したものである。なぜ石井家が所蔵していたかは不明であるが、一説に石井家(屋号は南部屋)は関守(せきもり)であったといわれていることから、奉納された社宝を管理していたと考えられるが、和歌集には「白川関鎮守」の文字があり境の明神ではなく、白河の関の玉津島神社へ奉納されたものであることが分かる。(白河神社は元亀二年・七七一、天太玉命、住吉明神・中筒男命、玉津島明神・衣通姫命を祀ると伝えられている。おくのほそ道の曾良の随行日記にも「宿ヲ出ル 町ヨリ西ノ方ニ住吉玉津島ヲ一所ニ祝奉宮有」とあり、この地に玉津島を祀る社があったことを裏付けている。白河の関は松平定信によって寛政12年・1800に関跡であることが定められた。天保3年には白河の関が旗宿であることは明らかになっていたと考えられるので、白河の関が境の明神にあるとの解釈はしないであろう。石井家に和歌集が存在したこと自体不透明である)
玉津島神社の南に隣接して別当寺宝寿山聖観寺があったが、火災に遭い再建されていない。石垣だけが残り、往時を偲ぶのみである。(福島県側は和光山豊神寺という)
- 所在地
- 栃木県那須郡那須町
- 交通アクセス