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芦野の歴史は道にあり!町歩き編

 

芦野は大きく分けて2つの散策コースがあります。宿場として栄えた城下町の面影や史跡を巡る町歩きコースと、小高い山に囲まれた芦野の美しい田園風景の中を歩くコース。

今回は町歩きコースを歩いてみましょう。案内してくれたのは、芦野のボランティアガイド「遊行会」の副会長、藤田さんです。

宿場の街道に芦野を往来した人々の面影が残る

ランチが食べられる茶屋と野菜の直売所がある遊行庵をスタート地点に、奈良川を渡り芦野宿へ。宿場の北と南の入り口にはそれぞれ地蔵尊がおり、町なかに災いが訪れぬよう見守ってきたそうです。
お地蔵さんが作られたのは享保年間(1716〜1736年)といわれ、芦野の長い歴史からみれば比較的新しいもの。北側の地蔵尊辺りを新町(あらまち)といい、芭蕉が訪れた元禄時代にはなかった新しい町であることが名の由来となっています。

現在仲町通りと呼ばれる通り沿いには、芦野石を使った屋号付きの常夜灯が点々と置かれています。これはかつて職人さんが多く住んでいて、和紙をつくる「紙すき屋」であったことを示すものなど、今は廃れてしまったかつての職業を知る手がかりになっていて、興味を引かれます。

建中寺を通り過ぎると、わざわざ鍵型になった道にぶつかります。これは桝形とも呼ばれ、敵の直進を妨げ動きを鈍らせるために作られたもの。つまり昔はここが宿場町の北の端であったことがわかります。藤田さんによると「今はS字に近い形になっていますが、当時は直角だったようです」とのこと。桝形の道の角にはかつて芦野に七つあった橋のひとつである中島橋が今も形を変えて残っており、芭蕉はこの橋を渡って遊行柳へと向ったそうです。

これは芭蕉に随行した河合曾良(かわいそら)の日記に、かつて橋のたもとにあった松本市兵衛という茶屋の主が登場し、そこから遊行柳に向かったと書かれているためです。

桝形の道から中心地に向かって直線の道沿いに最盛期で40軒近くの旅籠(はたご)が並んでいたといいます。江戸時代、参勤交代で大名も宿泊した芦野宿の旅籠。現在、隈研吾氏が設計した「石の美術館〜STONE PLAZA〜」の少し先には、うなぎの丁子屋さんがあります。かつて旅籠だった丁子屋さんの店の奥には「安達家蔵座敷」が残されており、身の安全を守るために位の高い武士が宿泊したそうです。世が世なら、庶民には入ることができなかった蔵座敷。来店した際にぜひ蔵の中でうなぎを食べてみてくださいね!

石の美術館〜STONE PLAZA〜
丁字屋

さらに300mほど進むと道が二手に別れます。登り坂になる左の道は武家屋敷が並んでいた上野町、右手は奥州街道とつながる河原町で、職人さんが多く住んでいた芦野宿の南の入口でした。その痕跡として北の入口と同じくここも道が桝形になっています。そして奈良川の脇には南の地蔵尊が鎮座。川を渡りしばらく国道294号沿いに南下します。

桝形の道
地蔵尊(南)

今も残る芦野氏ゆかりのスポットへ

しばらく歩くと、国道294号と仲町通りに入る道が交差する町歩きコースの折り返し地点に出ます。ここは現在美しい竹林として整備されている、芦野氏の旧墳墓がある唐木田地区。南北朝から江戸時代初期に至る、芦野氏前半の墓域といわれています。竹林を背景に五輪塔や自然石碑などが数基現存し、大型のものもあるので必見。それにしても一体、なぜこの場所に初期の芦野氏のお墓があるのでしょうか。

藤田さんいわく、ここは那須七騎のひとつである芦野氏が、隣接する白河結城氏の進行を食い止め、那須一族を守る役割の砦であったそうです。なるほどそれを裏付けるように、目の前の奥州街道(現国道294号)をまたいで、向かいには芦野氏第二の山城である、館山城跡の岩山が正面に見えます。つまり道を挟んで館山城とこの場所が街道を見下ろし、監視できる立地になっているのです。時代の経過とともに白河結城氏が衰退すると、砦としての役割を終え、以降の芦野氏の墓石は建中寺に移ることになります。

旧墳墓をあとに、仲町通りを中心地へと戻ります。次に見えてきたのは立派な長屋門。これは芦野氏第三の城、御殿山の北側にあった陣屋の裏門を移設したもの。芦野氏の家臣であった大塩家が明治時代に買い受けたそうです。現在も末裔である大塩さん宅の門として立派に受け継がれています。

武家屋敷が立ち並んでいたという上野町界隈。禅寺の曹洞宗最勝院を通り過ぎ、日本三所聖天のひとつ三光寺に到着。敷地の端にはなにやら山へと登る狭い石段があり、標識にあるとおり「御殿山 歴史探訪館」へとつながっているようです。
「えっ、こんな道から?」という急な道をどんどん登っていく藤田さん。普段からガイドをされているだけあって、ご高齢ながら健脚ぶりにびっくり。

山の中の坂道
御殿山

静かな細い山道を登ると、そこは御殿山の中腹、芦野氏陣屋跡を見上げる駐車場に出ました。芦野は幾筋もの裏道がさりげなく残されていて、探索心をくすぐります。御殿山は別名桜ケ城とも呼ばれ、春には全山が桜に覆われる花見の名所。芦野氏が明治の廃藩まで居城にしており、築城は天文年間(1532〜55)、芦野資興(あしのすけおき)の代という説が有力です。

ひと気のない山道に踏み入れる

御殿山の中腹にある「那須歴史探訪館」。那須町で出土した旧石器時代の石器の展示や、那須一族の台頭のようす、宿場として繁栄した芦野などを紹介する町の施設です。この建物も建築家の隈健吾氏が設計をしたもので、ガラスの壁面が外周のランドスケープと一体なったミュージアムは一見の価値あり。歴史探訪館先の道を左折すると仲町通りに出る下り坂がありますが、今回はあえてまっすぐ山道に入ってみることにします。道の入り口には朽ちた四脚門(よつあしもん)があり、芦野氏の筆頭家老であった、梁瀬家の屋敷があった場所。その奥には平久江家と神田家の家老のお屋敷があったそうです。家老はお殿様が参勤交代で留守の際には代わりに町政を務めた重要なポスト。芦野に伝わる「七橋 八坊 三家老」(芦野には七つの橋と八つのお寺と三人の家老がいる)という言葉に登場する三家老のお屋敷はここにありました。旗本であった芦野氏が大名並みに家老が三人もいたという事実から、この言葉が生まれたのでしょう。

落ち葉を踏みしめながら静かな山道を歩きます。途中、三家老のお屋敷跡地と思われる開けた空間があります。今は何も残っていませんが、それがかえって目に見えない時の移ろいを喚起させるから不思議です。

道の先は建中寺の敷地につながっていて、芦野氏19代の民部資俊(みんぶすけとし)から27代の資原(すけはら)までのお墓がある、新墳墓に出ます。唐木田の旧墳墓は、自然石に梵字が刻まれていたり、玉石が間に積まれた五輪塔など、はるか昔にインドから渡来した仏教文化の面影を感じさせました。一方で建中寺の新墳墓は現代にも馴染みのある四角い墓石になっており、歴代の芦野氏のお墓が整然と並んでいます。中でもひとつだけ、木の帽子をかぶったようなお墓が目につきます。実際は墓石の裏から木が伸びているのですが、これがなんとも可愛らしいのです。

建中寺をくだり、スタート地点の遊行庵に戻ります。かつて芦野宿として賑わった仲町通りを歩きながら、長年この地を統治してきた芦野氏ゆかりの場所を訪れた今回。今では人も減り、当時の賑わいはありません。しかしなにげない場所に長い歴史の痕跡を見つけることができました。敵の侵入を鈍らせるための桝形の道。街道を見張る砦であった旧墳墓。御殿山のふもとで要衝へとつながる小道を歩けば、往時の人々の暮らしをトレースするような小さな発見があります。トレッキング気分で芦野の歴史に触れるのも、小さな旅の楽しみです。

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