芦野城の築城は、天文年間(1532〜54)に太田道灌に師事した資興(すけおき)の築城とも、天正18年(1590)に秀吉によって領地の所有権を認められた盛泰(もりやす)によって築城されたともいわれています。本丸を中心に麓には当主の館をはじめ、家臣団の屋敷群が存在していました。二の丸は旗本芦野家の陣屋として屋敷を構えるために造成され、現在のような広い場所となりました。このことから、芦野城は要害としての機能が高かったと推察されています。
現在の「那須歴史探訪館」近くには、三人の家老の家がありました。一番手前には芦野氏の筆頭家老であった、梁瀬家の屋敷があった場所。その奥には平久江家と神田家の家老のお屋敷があったそうです。家老はお殿様が参勤交代で留守の際に代わりに町政を務めた重要なポスト。旗本であった芦野氏が大名並みに家老が三人もいたという事実が、芦野氏の権力を物語っています。
現在の仲町通りには、小規模な城下町が形成されていたようです。
主要街道である五街道が整備されると、宿駅としての芦野宿も徐々に形成されていきます。形成時期として一番早い説は慶長3年で、宿の名として「芦野」と表記する文献がみられるため、この時期だとするものです。
宿駅とはもともと街道沿いの集落で、旅人を泊める旅籠(はたご)や荷物を運ぶための人や馬が集まる場所です。江戸時代、街道と宿場には伝馬という制度がありました。伝馬とは幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐこと。公用の書状や荷物を出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、宿場ごとに人馬が交代して運ぶ制度を伝馬制と呼んでいました。
ある文献には、寛文9年(1669年)に宿場で火事があったという記述があります。そこには焼失した家の再建のため、当時のお殿様である資俊が、火元の1軒を除く71軒の家から3両ずつ借金をしたと書かれています。このことから、寛文9年には伝馬役の家が最低でも72軒あったことになります。
興味深いことに、この72軒の家数は現在の仲町の戸数とほぼ一致するということです。
また伝馬役の家のほかに、芦野宿には最盛期で40軒近くの旅籠(はたご)が並んでいたといいます。
各時代の文献を紐解くと、天保14年(1843年)には家数168軒、旅籠25軒とあり、幕末には旅籠42軒、雑貨店13軒程があったことが記録されています。
江戸時代、参勤交代で大名も宿泊した芦野宿の旅籠。現在、通り沿いには江戸時代から同じ屋号で営業している、うなぎの丁子屋さんがあります。かつて旅籠だった丁子屋さんの店の奥には「安達家蔵座敷」が残されており、身の安全を守るために位の高い武士が宿泊したそうです。
往時より往来する人の数は減りましたが、芦野の仲町通りを歩きながら、宿場の面影を探しに訪ねてみてはいかが。