芦野の名が最初に歴史に登場したのは、建長8年(1256年)のこと。当時、東山道に夜討強盗が出るため、鎌倉幕府から地域を管理する地頭に警護の命令が発せられました。この中のひとりに葦野地頭(あしのじとう)という名がはじめて出てきます。つまりこの時代にはすでに芦野に武士がいたことになります。
芦野に伝わる文献に当時の氏族、中原氏の血縁ともいわれる芦野四郎太夫という人物が登場します。鎌倉期の僧侶、叡尊(えいそん)は中原氏に宛てて横岡(那須町大字横岡)を殺生禁断の地とするよう書簡を送ったといわれています。中原氏が芦野四郎太夫のことであるとすれば、芦野を統治した芦野氏の祖ということになりますが、系図には出てこないため、詳しいことは分かっていません。
芦野氏の系図は1300年なかばに、那須資忠(すけただ)の3男、資方(すけかた)が当時の芦野領主の養子として迎えられ、初代那須系芦野氏になったことがはじまりとされています。那須与一で有名な那須氏は、本家のほかに福原氏、千本氏、伊王野氏、大田原氏、大関氏、芦野氏の七家が室町時代から戦国時代にかけて活躍し、那須七騎と呼ばれました。芦野氏は那須氏の一翼を担う武士団のひとつとして、芦野地域を統治してきたのです。
この那須資方を初代として芦野氏の系図は書き継がれていきます。
資方から12代親正までの記録は詳しく残されていませんが、13代資興(すけおき)は芦野城(現御殿山)の築城主として記録を残し、15代資泰(すけやす)は小田倉原の戦いや薄葉原の戦いなどに参戦したと記録が残されています。
また16代盛泰(もりやす)は天正18年(1590年)の秀吉会津出向のとき、太閤を酒や食事でもてなしたと伝えられる人物。さらに17代政泰(まさやす)は江戸幕府と豊臣家との間で行われた合戦、大阪の陣に参戦。政泰の時代を期に、芦野氏は徳川幕府のもと、交代寄合旗本としての道を歩むことになります。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって領地の所有権を認められていた芦野氏の石高は、およそ600石程度とみられています。現在の町内にあてはめると大字芦野の範囲か、または大字漆塚、大島、梓、大畑を含めた範囲であったと考えられます。
その後、関ヶ原の戦いに際して、会津の上杉景勝への備えとして芦野城を防備。さらに大阪冬の陣、夏の陣の功績によって下庄(しものしょう)が加増されて3016石の石高になりました。
下庄とは、芳賀郡(現在の益子町、茂木町、市貝町、芳賀町)に属する七ヶ村と那須郡の烏麦村を合わせた八ヶ村のことです。この下庄は芦野氏の石高の三分の二を担っていて、当時は広大な勢力範囲だったことが分かります。
こうして芦野氏は3000石の石高を有する、参勤交代を義務づけられた交代寄合の旗本になりました。
家格としても江戸城での控えの間が譜代大名と同じ「帝鑑の間詰(ていかんのまづめ)」とも「柳の間」ともいわれています。戦国時代に築かれた芦野城の二の丸に陣屋を構え、その規模は大名陣屋に匹敵するといわれました。これは、領主が三年交代で芦野陣屋に居住するためだったといわれています。
明治維新になったのは、29代資愛(すけちか)のときです。明治新政府によって、旗本芦野家は士族に列せられます。このときに石高は3016石から相当減らされたと考えられ、家臣に給与を与える余裕もなかったと推察できます。ほどなく資愛は芦野家から離縁し、その後32代の伊知松で芦野家は断絶、芦野の地を去ったと考えられています。
このように芦野氏は時代の移り変わりに呼応しながら、明治に武士階級が解体されるまで芦野を統治し続けたのです。室町時代から幕末まで、ひとつの氏族が同じ地域を統治しつづけることは、全国的にみても珍しいことでしょう。長い年月居城にしてきた土地を追われ、士族は姿を消しましたが、いまも芦野という名がこの里山に生き続けているのです。