松本家・大島家
松本家と大島家が創垂可継(そうすいかけい・黒羽藩政記録書一八一七年)に、「同村平右衛門先祖は那須家の家人にして、戦国の時奥州境目のため警固七人を置かれし其の壱人にて、…中略…右七人の子孫といえるは高久覚左衛門、熊久保蔵之丞、同所平右衛門、板屋幾兵衛、寄居大島平左衛門、同所松本丈助、同所平久江源左衛門云々」とある。
『同寺子村熊久保蔵之丞先祖と五月女坂・関山合戦』に登場する同姓を列記すると、五月女坂合戦には、熊窪弥右衛門、松本のみ。関山合戦には伊王野勢として、熊窪弥右衛門、高久善右衛門、大島源六郎、沢口四郎兵衛、松本志摩、平久江儀左衛門の名前が見える。関山の戦いは、上杉の白河守備隊と伊王野氏の戦いであり、関ヶ原の戦いとほぼ日を同じくしている。慶長五年には、七人は既に黒羽藩領となっていたはずである。それにもかかわらず、七人は那須一族である伊王野の傘下として参戦している。この七人は、創垂可継が示すように江戸時代には黒羽藩の支配下に入り名主、問屋となるのである。
「原の七人」のうち、寄居に三人がいた。大島、松本、平久江の三人である。大島(通称上の大島という)は江戸時代になると名主・問屋として寄居町組(現大字寄居の区域)、松本は寄居西組(現大字豊原甲・乙・丙の区域)を支配した。現在も当時をしのぶ門構えが残っている。平久江は問屋格であったが途中闕所となり、その跡式を沢口四郎兵衛の子孫大島(大島と改姓、上の大島に対し、下の大島という)が買い受けた。三氏の子孫は現存し、系図を受け継いでいる。
- 所在地
- 〒329-3441 栃木県那須郡那須町寄居
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