芦野五郎右衛門墓
西坂田中成仁氏宅裏に芦野家旧臣・芦野五郎右エ門の墓と伝わる石碑と真壁清左衛門が供養のために建てた碑がある。磨滅がひどく判読が難しい。道を挟んだ北側にも石塔が多く埋もれている。いずれも1600年後半のものである。芦野五郎右エ門は、五郎左エ門の父である。芦野家の一族で、盛泰の兄弟にあたる人物であろう。
慶長五年(1600)の関ケ原の戦いを前に、上杉景勝は徳川家康に抗するため、那須家に反旗を促した。
関白秀吉被薨候後、石田治部少輔三成、佐竹義宣、下妻多賀屋大夫等諸将某と同心仕慾揚旗之刻、那須資晴江戸へ人質登せ候由、早翻謀心身為馬組者、下野国一圓可進、若於御違乱は、佐竹之人々與示合、一時に可決勝負此趣資晴江遂諫言、早々御返答所希候、恐々謹言
八月二十日 景勝
芦野五郎左エ門殿
『概意』
関白秀吉薨ぜられ候のち、石田治部少輔三成、佐竹義宣、下妻多賀屋大夫等諸将と同心仕り旗揚げ欲するの時、那須資晴江戸へ人質登らせ候由、早や謀を翻し、心身を馬組せば、下野国一円を進(上)すべし、もし御違乱においては、佐竹の人びとと示し合わせ、一時に勝負を決すべし、この趣を資晴へ諫言を遂げ、早々御返答所望候 恐々謹言
那須資晴への仲介役となったのが芦野五郎左エ門であるといい、那須家が徳川方についたため、五郎左エ門は上杉景勝を頼って会津へ去ったという。芦野家とは別という。(白河古事考とあるが那須記による)
- 所在地
- 〒329-3443 栃木県那須郡那須町芦野
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