芦野の仲町通りにある真言宗のお寺、三光寺。ユニークな大根がクロスした仏紋を持ち、
地元から親しみを込めて聖天様と呼ばれています。
毎年縁日にあたる8月19日には盛大な「芦野聖天花火大会」が開催され、多くの人が訪れます。
しかしこの小さな佇まいの三光寺が、花火大会ばかりではない、全国に名の知れた由緒あるお寺であることをご存じでしょうか。
それは人々に語り継がれてきた「台明(三光寺)に過ぎたるものが三つある」という言葉に集約されます。意味は「こんな小さなのお寺にもったいないくらいのものが三つある」という内容です。
今回、三光寺の64代目住職、伊藤法持さんに三光寺が際立つ三つのキーワードについてお話しを伺いました。
三光寺は正式の名を台明山明星院三光寺といいます。創建は定かではありませんが、弘法大師空海を開祖とする真言宗のお寺で、宗派としての歴史は古く平安時代初頭にまで遡ります。
現住職の伊藤法持さんで64代目ということも、その長い歴史を裏付けています。
三光寺に残されている記録では、今から600年以上前、応永元年(1394年)に三光寺が本尊様をお迎えしたと記されています。つまり三光寺はこのときにはすでに存在しており、現在の場所ではなく、室町時代中期に築城された館山城の南にありました。
現在でも痕跡が残るその場所には、明星水といわれる清水が湧いていたため、三光寺の院号である明星院の名のもとになりました。
芦野氏とのつながりから応永元年に芦野氏を通じて三光寺に聖天様が迎えられています。三光寺は芦野の地を統治した芦野氏とともに長い歴史を歩んできたといえるでしょう。
三光寺は日本の三所聖天のひとつとしてその名を知られています。
安置されている聖天様はインドではガネーシャと呼ばれる象の頭をもつ神様ですが、秘仏のため一般にご本尊を拝むことはできません。
三所聖天のうち、ひとつは本殿が国宝に指定されている熊谷市の妻沼聖天、もうひとつは浅草にある浅草寺の子院である待乳山(マッチヤマ)聖天、そして芦野の三光寺です。
この三つのお寺に共通する聖天信仰のいわれがあります。
平安初期、弘法大師空海が唐から持ち帰ったものが天皇に提出した目録として残されており、この中に聖天様が登場します。どんな願いも叶えてくれる御利益のある神様として人気があり、これが日本での聖天信仰のはじまりとされています。
この当時、関東では疫病などの飢饉で庶民が苦しんでいたため、天皇の勅命により空海が一本の香木から三体の聖天様を刻んだとされています。そして祈祷をしたところ、飢饉が収まったといわれています。
その後、三体の聖天様が三つに分かれて、いろいろな寺院に安置されるようになりました。
三体がそれぞれ安置された場所が三所聖天であり、芦野の三光寺は妻沼聖天、待乳山聖天とならぶお寺として全国的に名高いのです。
三光寺に聖天様が来たのは、先に述べたとおり、応永元年(1394年)のことです。
三光寺の聖天様が、人々に広く信仰されるようになった要因として、白河藩主松平定信公の存在を欠くことはできません。楽翁公と呼ばれた定信は、深い聖天信仰をもち、三光寺には松平定信公が「感應聖天(かんのうしょうてん)」と書いた軸が保管されています。感應聖天とは聖天様と自分が一体になり、お力をいただいた(感應した)という意味です。
聖天様へのお願いごとは「自分と家族の命を捧げますから、どうか自分の改革を成就させてください」という内容です。
これらの重層な歴史をひも解けば、三光寺がいかに芦野にとって特別な存在であるかをうかがい知ることができます。
最後に、聖天様の仏紋はなぜ大根なのでしょうか?
大根は聖天信仰では夫婦和合、縁結び、子孫繁栄を表すものです。
大根は聖天様を象徴する仏紋に使われています。聖天様に大根の絵柄が使われるようになったのは、日本に入ってきてからといわれています。
もともとインドでは日本にはないチョウジという植物が仏紋であったといわれており、日本で一番似ているものとして大根になったという説があります。
また別の説では大根は植物ではなく、女性の姿を表すものであったといわれ、御利益のある聖天様のエネルギーが縁結びや夫婦和合、
子孫繁栄の願いを叶えてくれるという信仰に繋がっていきます。